食べ物が不足している国々へ、
世界各国から送られる食糧援助は全世界で年間700万トン。
これに対し、
日本だけで捨てられている食料は年間2,000万トン以上。
満たされることばかり追求し続ける国で育てられた、満たされないことを知らずに生きられることへの価値や有り難みを、それどころか、満たされていることへの喜びすら知らない子供たちへ
きれいに食べなさい。
食べきれなさそうな時には、
最初から量を減らしてもらいなさい。
その代わり、おかわりは何杯でもして良いから。
きれいに残しなさい。
途中で食べきれないことに気がついても、
食べ物で遊ぶな。皿の中の食べ物をぐちゃぐちゃにするな。
そうすれば、近くの誰かに食べてもらえるかもしれません。
「Thank you for this food.」
まるで空気のように、当たり前に食べている普段の食事に、本当に感謝できている人がはたしてどれだけいるでしょう。
自分の食欲がそこそこ満たされればもーそれでオッケー。
どうせお腹がすいたらまたいつでも食べられるしぃ。
食材を育ててくれた人のこと、肉になってくれた動物のこと、その食材を運んでくれた人のこと、食事を作ってくれた人のこと、その食事を買ってくれた人のこと、余計なゴミを回収に来てゴミ処理場まで運び、そしてちゃんと処理してくれる人のこと、その人たちや運搬や場所にお金を払っている人(政府 → 税金 → 納税者 → 住民)のこと、、、
そこに感謝の気持ちが欠落している人は、獣と一緒がそれ以下です。
君たちが口にしているのは、エサと一緒です。
きれいに食べない人、きれいに残さない人は、どんなに舌がこえていようが、味わう喜びを嬉しそうに語ろうが、所詮その程度って思う自分がいます。
ひもじい思いなどをなまじ知っていると、食べ物を粗末に扱う人たちにどうしても優しくなれない自分がいます。
「今日も食べることができる」と、食べられることに、食べ物に、そして命に感謝する気持ちは、現代社会においては邪魔ですか? 面倒くさいですか? 時代遅れですか? ひもじい思いをせずに生きられることへの価値も有り難みも、意識しないで過ごせるほうがラクですか? 幸せですか?
でも、たとえひもじい思いをせずに生きられることの価値を知らなくても良いから、食べ物を大切にいただくことはできるはずです。
満たされないことを知らずに生きられることの有り難みを意識しなくても良いから、満たされていることに感謝することはできるはずです。
「あなたの命を私の命にさせていただきます」
「どうもありがとうございます」
「いただきます」には、
そんな想いが込められています。
食を支えている人たちがいるように、私たちはたくさんの人たちに支えられて生きているということを、今、あらためて認識する必要があるように思います。
子供たちは、単に「知らない」だけなのかもしれませんね。
本人が自分で気がつくまで待ってあげるのも愛ですが、大人になってから恥をかかぬ前に教えてあげるのもまた親の愛(エゴって言ったらキツいっすか?)。
僕はどちらでも構わない方なのですが、時には自分も食べ物を粗末にするくせに、食べ物を粗末に扱う人たちにどうしても優しくなれません(我ながら我がままです)。
さらに自分のことは棚に上げて言っちゃうと、四の五の言おうと言うまいと、「無くなる」前にみんなが気づいた方が良さそうな状況であることだけは、確かなんです。
「無くならない」という考え方もあります。ただしそれには条件があります(何だか分かりますか?)。「無くなる無くなる」と言いながら、人々を煽って(コントロールしようとして)いる人たちも確かにいます(みなさんも気づいてくださいね)。
いずれにせよ、モノ、人、事を問わず、「大切にすること」にフォーカスすれば、節約もエコも自然に付いてくるはずなんですけど、皆さんはいかがですか?
ハワイ発 省エネと地球温暖化を考える
www.ecohawaii.net |